南海ホークスに野球人生を捧げた鶴岡一人

 
鶴岡一人

1916年呉市で生まれた鶴岡一人は、法政大学を卒業すると同時に南海に入団し、後に南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、史上最多勝監督でもあります。

学生時代から花形選手で、大学を卒業しプロ野球に入った第1号選手です。統率力に優れており、入団1年目にして主将に抜擢され、3番・三塁手としてホームラン王にも輝き、ノーステップ送球で人気を集めました。翌年から6年間、戦争のため航空隊機関砲中隊長を務め、指揮官として務め復員後、南海で選手兼任監督を務めました。

名もない選手を育て上げるのが得意で、グランドにはゼニが落ちている、の名セリフを生みました。現代につながる機動力野球の元祖をつくりだし、南海を初優勝に導きました。選手としても3シーズンMVPに輝いています。

引退後、23年間に渡って監督を務め、岡本伊三美や野村克也、大沢啓二や杉浦忠など錚々たる名選手を育て上げました。

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日本各地に常駐のスカウトを置いたプロ野球スカウト制度の確立や、専用スコアラーの採用など現代のプロ野球のベースを造り上げました。監督時代の1965年には殿堂入りを果たしています。

野球界の名監督 川上哲治について

 
川上哲治

川上哲治氏は元プロ野球選手、監督です。1938年に東京巨人軍に投手として入団しました。入団当初は投手と野手を兼任していましたが、後に野手に専念することとなります。

その後の活躍は素晴らしいもので、打撃の神様と呼ばれるほどでした。1958年に野球選手を引退しましたが、1961年から14年連続で巨人軍の監督を務めました。特に1965年から1973年まで9年連続でリーグ優勝したことは今でもV9時代として語り継がれています。

その間、世界のホームラン王の王貞治氏、ミスタージャイアンツの長嶋茂雄など多くの名選手を育て上げ、名監督として知られるようになりました。

しかし、1974年にリーグ優勝を逃し、リーグ2位となってしまうとその年で現場から退くこととなりました。その後は球団に残ったものの、球団幹部との折り合いがつかず、わずか1年で退団し、野球解説者となりました。2013年の10月に老衰のため93歳で死去しました。

落合博満氏

 
名監督

落合博満氏は、監督として4回のリーグ優勝や1回の日本一を達成した名監督です。現役時代には日本プロ野球史上唯一となる3度の3冠王を獲得した、プロ野球史上屈指の打者でした。

プロ入りは1978年のドラフト会議でロッテから3位指名をうけて入団しました。1981年は、オールスターゲームに出場し4番を努め首位打者のタイトルを獲得しました。

野球

翌年の1982年には、史上最年少で3冠王を獲得。そして、1985年と1986年には2年連続で3冠王を獲得し、オフに中日ドラゴンズへ移籍しました。中日では本塁打王や打点王のタイトルを獲得する活躍をし、1994年にFAで憧れの長嶋茂雄監督のいるジャイアンツへ移籍しました。ジャイアンツでは4番打者として、2度のリーグ優勝に貢献しました。

1997年には、ジャイアンツから日本ハムへ移籍し、プレーをしました。この年は44歳になる年で、規定打席に到達しています。この記録は現在でも破られていません。ファンは「神主打法」をいつまでも忘れないでしょう。

監督としての野球理論には定評があり、たいした補強をしないで、中日を優勝へと導きました。監督になっても俺流を貫き通しています。